いもむし男−第12章


《織美-1》

銀座4丁目の路地に建つ巨大な門松みたいなビルの壁にもたれ、翔吾は携帯電話から亜輝子に連絡を入れた。

「翔吾!?いったい、あなた、今、どこに居るの?」亜輝子の驚きと呆れが入り混じった声が聞こえた。無理も無い。

「急用が出来て東京に出てるんだ。けど、終電に乗り遅れた」

「乗り遅れたって・・・じゃあどうするの?どこか泊まる当てはあるの?」

「うん・・・」彼は袖をまくって腕時計を見た。「今から渋谷に戻って『D.I.Y.ギャラリー』に泊まる。それで明日も引き続き用を片付けて、今度は終電に間に合うように帰るよ」

「ねぇ・・・何があったの?」

「何でもないよ。心配は要らない。僕は元気だし、夕飯も食べた。風呂は昼間入ったしね。だから君はあまり飲み過ぎないで、明日は遅刻しないように。じゃあ、おやすみ」

「やっぱり、何かあったんでしょう?」

「無いってば・・・じゃあね・・・あ、そうだ」

「なぁに?」

「愛・・・いや、なんでもない。じゃ」彼は頭を掻きながら電話を切った。(ダメだ。「愛してるよ」なんて、とても言えねぇや)翔吾は電話をポケットに仕舞い、回収したポスターの入ったバッグを抱えて渋谷へ向かった。

夜中の道玄坂を歩き、幾つか角を曲がり、『D.I.Y.ギャラリー』の扉を軽くノックすると、鍵の開く音がし、織美が出迎えた。

「やっぱり乗り遅れたんですねぇ。あの時間からだから、そうじゃないかと思ってましたぁ」織美はそれを見越して、終電に間に合わなかったらギャラリーに戻れと言ってくれたのだった。「で、何枚回収したんですかぁ?」

「うーん、ざっと40枚かな?道は険しいね。ギャラリーは閉まるの早いし」翔吾はバッグからポスターを出し、応接の隅に積み重ねた。「待たせて悪かった。織美さんは、今からどこへ帰るの?」

「わたしですかぁ?」織美は欠伸しながら時計を見た。「今から帰るの面倒臭いから、ここに泊まろうと考えていますが」

「ここに?」翔吾はソファを指差す。「じゃあ、俺は床の上でいいよ。昨日なんかレンガ蔵の床で寝たんだから」

「大丈夫ですよぉ、ホラ」織美はそう言ってソファの背もたれを操作する。三人掛けのソファはたちまちセミダブル程度のベッドに変身した。彼女は即席ベッドに用意した毛布を敷き、羽布団を被せ、表情一つ変えずに枕を二つ並べた。そして眠たそうな目付きで訊ねる。

「何か、食べます?それとも、もう、寝ますかぁ?」

「腹は減ってないし疲れたから寝たいけど・・・」翔吾は織美に向かって首を傾げてみせた。「これ、やっぱり、マズイんじゃない?」

「心配しなくていいですよぉ、わたし、襲ったりしませんから」

「もしかして、それは俺のセリフじゃないかな?」

「自信、ありますかぁ?」

「いつもはある・・・今日は、無い」翔吾が肩を落とすと、織美は淡々と彼の上着を脱がせてハンガーに掛けた。「あの、お願いがあるんですけどぉ」

「なに?」

織美は気前の良いストリッパーみたいにパッパッと衣服を脱ぎ捨てながら言う。「わたし、いつも裸で寝てるんです。子供の時から、そうしないと上手く眠れないんです。だから、全部脱いじゃってもいいですかぁ?」

翔吾はシャツのボタンを外す手を一瞬、止めた。「・・・それは、イタリア流?」

「フフッ、そうかもしれませんねぇ」織美は眠そうな顔に笑みを浮かべながら、相手の了解を得る前に素っ裸になり、「実はもうひとつお願いがあるんですけどぉ」と言う。

「今度は、なに?」翔吾はシャツを脱ぎ、コットンパンツを床に投げて、先に横になった。ソファベッドの寝心地は、レンガ蔵に比べれば天国だ。

「・・・わたし、少し、泣いてもいいですかぁ?」と訊きながら、織美は彼の隣に潜り込む。

「どうして泣くの?」

「どうしてって・・・」織美は暖を取ろうと身を寄せる猫のように、翔吾の脇にピタリと寄り添い呟いた。

「・・・未野さんが、可哀想で」

嗚咽する織美を、翔吾は腕の間に抱き寄せた。織美は涙で濡れた頬を彼のTシャツの胸に押し付けてしゃくり上げる。「あの・・・お母さん、ヒドイこと言い過ぎですぅ・・・未野さんは悪くないのに・・・ちっとも悪くないのに・・・24年振りに逢って、なにもあんなこと言わなくたって・・・と思いましたぁ・・・」

翔吾は灯りを落としたギャラリーの天井を見て呟く。「いいんだ、あの人は・・・昔からちっとも変わってないだけだから。背は縮んだけど」

「でも・・・」織美はムクリと顔を上げ潤んだ瞳で彼を見つめる。「人の気持ちがわかってないのはお母さんの方じゃないですかぁ・・・未野さんの気持ちをちっともわかってないと思いますぅ」

「・・・ありがとう」翔吾は織美の頬の涙を指先でそっと拭い、「織美さんの言葉が沁みるなぁ」と言って軽くキスをした。

「あ・・・いけませんねぇ、気持ち良くなっちゃうじゃないですかぁ?わたし、喜びますよぉ」織美は洟を啜りながら笑う。

「ごめんね。今日は色々ダメージが重なったもんで・・・」彼は上半身を起こして頭を掻いた。「ブレーキが壊れてるんだ。事故を起こしそうだから、やっぱり俺は床に寝るよ」

「いいですよぉ、こうなったら一緒に事故りましょうよぉ」織美は翔吾のTシャツを掴み、パッと捲くり上げて剥ぎ取った。自分が脱ぐだけじゃなく相手を脱がせるのも上手いらしい。彼女は軟体動物みたいな指先を彼の胸に這わせて何事かを吟味する。「・・・男の人の肌って、もっと荒くてザラザラしてるのかと思ってましたが、未野さんはスベスベで綺麗なんですねぇ」

「・・・え?」どういう意味か量りかねていると、織美の手はするすると下へ降りて行く。

「わたしなんかで悪いですけど、それで少しでも未野さんの気が晴れるんならしてもいいですよ。全然、ざっつおーらいっのーぷろぶれむっ」

「わたしなんか、なんて、そんなことは・・・織美さんは、可愛いよ」

「ホントですかぁ?ホントなら嬉しいですぅ。じゃ、ホンの少しでも、わたしのこと、好きですかぁ?」

「ホンの少しじゃないよ、たくさん、好きだよ」

すると、織美は「イェイッ!」と指を鳴らし、「んじゃ、スペシャルサービスしちゃいますぅ!」と言いながら羽布団の中に潜って行った。



少し眠ったのだろうか、まだ薄暗い明け方、翔吾はふいに目を覚まし、辺りを見回した。隣を見ると、織美が頭を半分起こして自分を見つめていた。

「・・・あれ?・・・ずっと、起きてたの?」

彼が訊くと、織美は卵形の顔をゆっくり動かして頷いた。「未野さんの寝顔を眺めてましたぁ・・・なんだか、二度と逢えないような気がして」

「そんなことは無いと思うけど・・・」

「でも、人生、何が起こるかわかりませんから」織美はふっくらした柔らかい掌で翔吾の頬をそっと撫でる。「オーナーだって、今日も元気にジョギング行ったなぁって思ってたら、車に撥ねられて死んじゃったんですよぉ」

「そうだね」翔吾は織美の手の上に自分の手を重ねる。「春子さんは・・・」

「ホント言うとぉ・・・」織美は少しだけ眉をしかめた。「オーナー、わたしの母なんですぅ」

「お母さん?」

「でもぉ、あの幽霊のお爺ちゃんはわたしの父じゃないんです。あのお爺ちゃん・・・昔からお爺ちゃんだったわけではないですけど、その、オーナーの御主人が何十年も刑務所に入ってる間に、わたしが生まれたんです。それで、そのまま父方に引き取られて5歳まで育って、その後、父の友人で子供の出来ない山根さんちの養女に入って、高校生の頃に村神春子さんってのが本当の母親だって知って探したら美術界の人だったから、わたし急遽進路を美大に変えて・・・それまで、弁護士になるか、社会学か哲学を専攻しようと思ってたんですけどね」

翔吾は黙って天井を見つめた。織美は続けた。

「それで、わたし畑違いの美術の勉強を一生懸命して多摩美を出た後、そのころ麻布にあった初代の『D.I.Y.ギャラリー』を訪ねたんです。春子さんは本当に素敵な人だったんで、わたしもう嬉しくて・・・最初はアシスタントなんて要らないって断られたんですけどぉ、熱心に通ったら採用してくれました」

「・・・だけど、春子さんは、私には子供も孫も居ないって言ってたよね?」彼が訊くと、織美は笑窪を見せて「お爺ちゃんの幽霊に気兼ねしてるんじゃないですかぁ?」と笑った。

「それに、わたしオーナーに、あなたの娘です、って名乗ったこと無いんですよぉ」織美は何でも無いことのようにそう言って微笑んだ。「赤ちゃんの時に別れたからわからないだろうけど、もしかしたらわかるかな?なんて思いながら9年も傍に居て、結局、名乗る前にオーナーが亡くなってしまったんですぅ・・・あれ?どうしたんですかぁ?」

翔吾は織美の腰に腕を廻して溜息混じりに呟く。「ごめん・・・話を聞いてたらなんだか切なくなって・・・もう1回入りたくなった」

「もう1回って、もう5回目ですよぉ」織美は指を絡めて彼を導く。「疲れてるのに・・・わたしは歓迎ですけどぉ、未野さん、ヤケを起こして死なないでくださいね」

「別にヤケになってるわけじゃないよ、ただ、織美さんがとても素敵だから・・・つい」

「それ、わたしのココが、でしょう?」彼女は楽しそうに笑い、何か言い掛けた彼を熱くとろけるマシュマロみたいな体ですっぽり包んだ。



《織美-2》

10月17日の朝が来ると、織美は即席ベッドをソファに戻し、テーブルの上にサンドイッチとコーヒーを並べた。二人は欠伸を連発しながら朝食を取った。翔吾は髪をグシャグシャと掻き混ぜて頭をパシパシ叩く。「いささか寝不足だ・・・でも、色々ありがとう。何もお返しは出来ないけど」

織美はヘッヘッヘッと笑う。「いえいえとんでもない、昨夜は、たぁくさんいただきました。こんなこと言っちゃあなんですけどぉ、これまでのわたしの人生で最高の夜でしたよぉ。ほんっとにっ、気持ち良かったっ。まだ体の真ん中に余韻が残ってますぅ!」

あっけらかんとした言葉に翔吾が呆然としていると、織美は急に真面目な顔になって人差し指を立てた。「ついでにもうひとつ白状しちゃいますとぉ、わたし、男の人としたの、実は初めてなんですよぉ」

(え?)という彼の顔の前で、織美は慌てて手を振った。「あ、違います、ヴァージンって意味じゃありません。わたし、実はレズビアンなんです」

「レズビアン?・・・あ、そう?」

「そうなんですぅ。でも、ちょっとバイセクシャル気味かもしれないですね、未野さんのこと、好きだから」織美は肩をすくめた。「自分でも発見ですけど、昨夜は何度もイケたし・・・人間の感覚って、奥が深いですよねぇ」

「うーん」翔吾は返答に困って腕を組んだ。

「わたし、イタリアに行きたいって言ったじゃないですかぁ?日本だと、まだまだ偏見が強くて、レズビアンが生き辛いってのもあるんですよね。今、マリアっていうイタリア人の彼女と一緒に住んでるんですけどぉ、マンションの住人に部屋を覗かれて以来変態扱いで・・・けったくそ悪い話ですよねぇ・・・あ、そうだ」織美は自分のお腹に手を当て、目を閉じて真剣な口調で訊ねた。

「もし、もしですよ、昨夜の6発でわたしが妊娠したら、イタリアで産んでも構いませんか?」

「妊・・・!?」翔吾はコーヒーを吹き出しそうになる。「そうかっ、考えてもみなかった、俺達が子供の出来ない夫婦だから・・・」

織美は目を開けて問う。「それは、なにか健康上の問題があって?」

翔吾は首を左右に振る。「いや、どちらも問題は無いんだけど・・・医者にも原因はわからなくて・・・」

「あーきっとそれは」織美は座り直して真っ直ぐ彼を見つめた。なんだか急に産婦人科の医者みたいに見える。「遺伝子が似過ぎているんでしょう。遺伝子が近いと生物として支障のある遺伝を受け継ぐ可能性が高くなるんで、自然の操作が働いて受精しないか、受精卵が育ちにくい、という説を本で読んだことがあります。ところが人間は遺伝子が近い方が親しみを感じて惹かれやすいんで、熱烈な恋愛結婚した夫婦ほど不妊の確率が高くなる、とも書いてありました。本当かどうかはわかりませんがぁ」

「・・・なるほど」

「で、」織美は身を乗り出し、有無をも言わさぬ表情でもう一度訊ねた。「子供を産んでも、構いませんかぁ?」

「構いませんかぁ?って、訊かれても・・・それを、織美さんが望むなら、俺には反対出来ないよ」

「じゃ、オーケーですね」織美はホッとして微笑んだ。「レズビアンの悩みは子供が作れないことなんです。医学が進歩したとはいえ、わたしは自分のクローンを産む気にはなれませんから。未野さんの遺伝子なら、望むところです。大丈夫、マリアと二人でしっかり育てますよぉ。きっと、ミケランジェロにしてみせますから」

翔吾は複雑な気分で立ち上がった。いずれにしてもそろそろ出掛けなければならない。回収すべきポスターはまだ260枚も残っている。織美はリストをコピーし、半分を自分が受け持つと言って譲らなかった。

「お手伝いしたいんですぅ、お願いしますっ」彼女は頭を下げ、大きなバッグをもう一つ用意する。

「だけど、それじゃあまりに申し訳ない。何か・・・織美さんの欲しいもので俺があげられるものってある?」

「だからぁ、昨夜、もう、いただきました、って・・・」

「他には?」

翔吾の問いに、織美は一瞬考えを巡らし、「じゃ、もし良かったら、ですけどぉ、未野さんのデッサンを1点、いただけますか?」と言った。

「デッサン?あの、2階にある?」

織美は頷く。「スッゴイ、素敵だと思うんですぅ。見てると、もう涙出て来ちゃいます。デッサンも、モデルの方も・・・わたし、大っ好きです」

「ありがとう・・・どれでも、好きなのをあげるよ」そう答えてから、翔吾は足元に視線を落として少し考え、決意して顔を上げた。

「決めた。あのデッサンは、全部、織美さんにあげる」



《コトの顛末-1》

「ええーっ!」織美は目を剥いてプルプルと首を振った。「そ・そんなっ、もったいないですっ!1点で、充分ですっ!」

しかし翔吾は彼女の手を取り、目を覗き込んで言った。「いや、織美さんに譲りたいんだ。色々物議を醸してる絵だからってわけじゃないけど・・・それに、役に立つかどうかわからないけど、養育費の足しにでもなれば・・・」

「やだぁ、まだ妊娠したかどうかもわからないのに、そんな心配無用ですよぉ」織美はカッカッと笑い、それから素早く真剣な顔に戻る。「でも、きっとお釣りが来ますよ。本当にいただけるのなら、遠慮無くいただいて家宝にします。イタリアで宣伝しちゃいます」

「良かった・・・じゃ、行こうか」

「未野さん、最期にもうひとつ、お願いが・・・」

織美は翔吾の腕を強く掴んだ。翔吾は咄嗟に意味を察し、彼女を強く抱きしめ心を込めてキスをした。唇を離すと、織美は諭すような強い口調で言った。

「いいですか?約束してください。今のキスを最期に、昨夜のことは全部忘れるんです。間違っても、奥さんに白状するなんて馬鹿な真似は絶対にしないでください。そんなことをしたら、わたしは即座に自殺しますからね。それからもし子供が生まれても、それはわたしとマリアの子供です。未野さんには一切関係ない。子供に父親のことを訊ねられたら、芸術の神様が父だって教えます・・・わたしも昨夜のことは忘れます。今のキスだけ、一生の思い出にしますね。レズビアンのわたしが愛した、唯一人の男の記憶として」

織美はバッグを担ぎ、ギャラリーの扉を開けた。「じゃ、出発ですぅ〜」



その日は土曜日ということもあり、都内はどこも人波でごったがえしていた。渋谷駅で織美と別れた翔吾はリストを片手にまず恵比寿に向かい、代官山へ廻り、山手線周辺を時計回りに配布先を訪ねた。訪ねたギャラリーやアートショップにはすでに『摩天楼』からの連絡が行っていたので、回収そのものはスムーズに運んだ。「記載に誤りがありまして」などと適当な口実を述べて頭を下げ、ポスターを受け取ってはバッグに入れて次を目指す、の繰り返しだ。

だが、時々、こんな場面もあった。

「あ、あなた、もしかして」と店主が『21世紀アート』を持って来てページを捲り、「この人でしょう?」と槍杉の記事を示す。

翔吾は自分の写真を覗き込み、「あー、似てるんですけど、違います。これは双子の弟でして」と答えた。

「双子?ホントウ?」

「ホントウです。だって、本人が自分でポスター回収するわけないじゃありませんか。こんな、雑誌に載るような奴なんですよ」

「そりゃそうだ」店主は頷きながらも写真と翔吾を見比べる。「じゃ、なにかい?あんたは芸術家の弟さんの世話役かなんかしてるの?」

「そうなんです。芸術馬鹿のくせにわがままで無頓着で世話の焼ける奴でしてね。オマケに人使いが荒くて・・・」

「芸術家だからねぇ」店主は深く頷く。「その上、スケベでオンナに手が早い、だよねぇ」

翔吾は一瞬賛同しかねるが、やむを得ず頷く。「・・・全く。とんでもない奴ですよ。しかも、ウソつきなんだから」

そうこうする内にあっという間に12時を過ぎた。翔吾は新宿南口で小さな食堂に入って昼食を取り、リストの残りをチェックした。その時、ポケットの中の携帯電話が鳴る。

(織美さんかな?)と思いながら応答すると、相手はなんと、八百樹だ。

「おい、今、お前どこに居るんだ?」八百樹は相変わらずのドスの効いた声で訊ねた。

「どこにって・・・なんで俺の電話番号を知ってるんだ?」

「バーカ、そんなもんは私立探偵ならお茶漬け前に決まってるじゃねぇか。寝ぼけてんのか?え?」

「・・・ふーん」翔吾は溜息をついた。「じゃ、俺が今どこに居るのかもわかるんじゃないの?」

「なんだとっ!?」八百樹は小さい声で何事か呟いた。おそらく受話器の向こうで口髭をモゴモゴさせているのだろう。ややあって、返答が来る。「わかった。新宿南口の『てんてん』だろう?」

翔吾はギョッとする。「凄いな・・・本当に俺の居場所がわかるんだ。びっくりした」

「どうだ、見直したか?俺だって伊達や隠し芸で私立探偵やってんじゃねぇんだっ」

「見直したよ。それで、俺に何か用か?」翔吾が問うと、八百樹は苛立った口調で怒鳴った。

「用があるから電話したんだろがっ!?だいたいオレオレ言うんじゃねぇっ!いつからお前は僕からオレになったんだっ!?オレは俺の専売特許だっ!俺と話す時は紛らわしいから僕にしろっ!」



《コトの顛末-2》

「わかったよ、わかったから怒鳴らないでくれよ、耳が痛いから」本当にメチャクチャな奴だなと思いながら翔吾は訊き直した。「で、僕に電話した用件はなんなの?」

「ふん、やっぱりお前には僕の方が似合ってるぜ・・・」八百樹は勝ち誇った口調で言う。「俺はな、未野、お前に話があるんだ」

「だから・・・その、話ってのは、なんなんだ?って訊いてるんじゃないか」翔吾は腕時計を見た。八百樹のせいでロスタイムだ。

「バカッ、電話で言えるような簡単な話ならとっくに言ってら」

「じゃあ、なんで電話したんだよっ!?」翔吾は伝票を持って席を立ち、電話しながらレジへ向かった。

「お前がウロチョロ逃げ隠れしないようにするためだ」

「俺、じゃない、僕がいつウロチョロ逃げ隠れなんかしたってんだい?」彼はポケットから財布を出し、電話しながら会計を済ませる。店の外へ出ると、電話の中で八百樹が言った。「おいっ、どこへ行くっ?『てんてん』の前から動くなっ!動くと撃つぞっ!」

(動くと撃つぅ?)

翔吾は辺りを見回した。昼飯時の南口は様々な人間が入り乱れて渦巻いていた。まさか、八百樹の奴、この中に居るんじゃ・・・

「バンッ!」という声が、いきなり耳元に響いた。驚いて振り向くと、八百樹が例のピストル型ライターを背中に突きつけている。

「八百樹、いい加減に止めろよガキみたいな真似は。俺達はもう、34なんだから・・・」と翔吾が呆れた声を出すと、八百樹は平手打ちで頭をバシッと叩いて言った。「俺、じゃねぇだろっ、お前は、僕、だっ。間違えるなっ!」

「はいはい」頭を擦りながら翔吾は首を振った。「・・・で、僕に話ってのは、なに?」

「ふん」八百樹は鼻を鳴らして口をへの字に曲げる。「ここじゃ人目が多過ぎる。ちょっと、こっちへ来い」そう言って翔吾の耳たぶを掴んで引っ張る。

「ちょちょちょっと、待てよ、逃げないからさ、耳たぶを引っ張るのは止めてくれよ、僕をダンボにする気かい?」

「ふん、ダンボどころか、その内使用済みのダンボールみたいに畳んで束ねてリサイクルセンターに出してやるっ!いいから来いっ!」八百樹はそう言いながら翔吾を『プクプク』に連れて行った。

(やれやれ、『てんてん』の後に『プクプク』か・・・合わせて『転覆』なんてことにならなきゃいいけど)

翔吾は禍々しい予感に肩をすくめた。『プクプク』は『てんてん』から通りを西へ30メートルばかり行ったところに建つ『新宿極楽ビル』地下1階の狭苦しい店だ。昼は喫茶店、夕方からバーになる。その片隅のボックス席に翔吾を押し込み、八百樹は向かいに腰を下ろしてコーヒーを2つ注文した。それから煙草を取り出してピストル型ライターで火を点け、吸い込んだ煙を思い切り翔吾に吹き掛ける。翔吾はむせながら手で煙を払った。その様子を見て、八百樹はまた、「ふん」と鼻を鳴らし、切り出した。

「お前、グロピウス、って知ってるか?」

「え?」翔吾は咳き込みながら目を瞬かせた。「・・・グロピウスって、バウハウスの?」だが、そう答えた途端にテーブルの下で向こう脛を思い切り蹴られた。ちなみに八百樹はいつもチャコールグレーのスーツに身を包み、ピカピカに磨かれた先の尖った革靴を履いている。どちらもイタリア製の高級ブランド品だ。だからというわけではないが、これで蹴られるとことさらにイタイ。翔吾は声も出なかった。

八百樹は煙草をくわえ、翔吾を睨みつけたまま内ポケットに手を入れて折り畳んだ紙を出す。そしてそれをゆっくりテーブルの上で広げ、苦虫を噛み潰したような表情のまま翔吾の反応を窺った。

それは岡鬼が作ったポスターだった。

翔吾は痛む向こう脛を擦りながらポスターを見て、すぐに四隅が破けていることに気付いた。「・・・これを・・・どこから剥がしたんだ?」

「豪徳寺の『さんざん坊』っていうギャラリーの外壁からだ」

八百樹が答えると、翔吾はポケットから配布先リストを取り出し、「豪徳寺の、『さんざん坊』、と・・・」と呟きながらそれを探してボールペンで印をつけた。八百樹は身を乗り出してリストを覗き込む。

「なんだ、これは?」

「ああ、これ?」翔吾はリストを八百樹に見せた。「このポスターの配布先リストだよ。見ての通りのデザインだからさ、俺・・・じゃなくって僕は頭に来て、これを作った奴に回収するから配布先のリストをくれって言ったんだ。それが、これ」

八百樹は口髭をモゴモゴさせながらリストに目を通し、「全部で、何枚配ったんだ?」と訊く。

翔吾は肩をすくめた。「東京中のギャラリーやその他色んなところにざっと300枚だそうだ。僕がこれを知ったのが昨日の昼で、なんだかんだあって夕方から回収したから今日の午前中まででまだ80枚ぐらいしか回収して無い。もっとも、半分担当してくれる人が現れたから助かったけど・・・」それからテーブルを指差し、「こんなところで足止め喰らっていたら、とても今日中に回収し終わらない。だから話はまた今度にしてくれないか?」と言った。

八百樹はテーブルを差した翔吾の手つきを真似て、同じようにテーブルの上のポスターを指差した。「そうは行かねぇな。こいつの問題は回収すりゃあ片付くってほど甘くはねぇぜ」八百樹の指はポスターの上をスーと移動し、下の方に記された文字の上で止まる。

「・・・ここに書いてある名前は、お前の名前と良く似てる。そっくりだ。俺の推理ではこれはお前の個展のポスターで、ここに使われている絵はアレンジはどうあれ元はお前が描いた絵だ、と思うんだがどうだっ?」

翔吾は諦めて溜息をついた。「たいした推理だね。ご明察の通りだよ」

八百樹は「ふんっ」と鼻を鳴らして続けた。「で、ここに張り付いてる尻尾が3本ある猫は、俺んちのグロピウスなんじゃねぇのか?」 翔吾は八百樹の目を真っ直ぐ見て、返事をしなかった。

「そうなんだな?」八百樹は短くなった煙草を灰皿にゴシゴシ押し付けながら言う。「尻尾が3本ある猫なんてのは世界中探してもあいつぐらいしか居ねぇ。生まれ付きの突然変異だからな。といってもキンタマは当たり前に2つだが・・・未野、お前はもしかすると3つあるんじゃねぇのか?」

「そんなことは無いよ」翔吾は膝の上で手を組んで天井を見た。「無い、と思うよ・・・数えたことはないけど」

「ふん、まぁそれはともかくだ」八百樹は新しい煙草を取り出して火を点ける。「これが1本の尻尾をコピーして増やした図じゃねぇことぐらい俺が見たってわかる。こいつは間違いなくグロピウスだ。で、問題はここからだ。いつ、お前がグロピウスの絵を描いたか?ってぇことと、それよりさらに重要なことは・・・」

そこで八百樹はグッと身を乗り出して翔吾の目の前に髭面を突き出し、訊いた。

「・・・この、バラバラ死体みたいな裸は、華子だな?」

翔吾は目と鼻の先にある八百樹の顔をじっと見た。もじゃもじゃした太い眉と眉の間に深い縦皺が寄っている。マリワナ海溝よりも深そうな縦皺だ。きっと隙間にシーラカンスの団体でも住んでいるに違いない。

「・・・そうだ」

彼は低い声でそう答えて目を閉じた。殴られると思ったからだ。

が、予想に反して鉄拳は飛んで来なかった。目を開けると、八百樹は腕を組んで煙草を吹かしていた。タイミングを見計らっていたウェイターが少々冷めたコーヒーをテーブルに運び、逃げるように去った。八百樹はソーサーごとカップを取り、組んだ足の上で支え、ズーッと音を立ててコーヒーを啜る。次にテーブルに戻された時、カップは空になっていた。

八百樹は残っていた煙草を消し、軽く咳払いしてから言った。「・・・未野、俺はお前に忠告した筈だ。華子に手を出したら、殺す、と」



《コトの顛末-3》

翔吾は黙ってテーブルに置かれたコーヒーカップを見つめていた。冷めたコーヒーからは立ち昇る湯気も無い。その代わりのように八百樹はまた新しい煙草を出して火を点け、久々の出番に張り切る蒸気機関車みたいに景気良く煙を吐いて話を続けた。

「俺は3日前に野暮用で豪徳寺を歩いてて偶然このポスターを見つけてすぐにピーンと来たんだ。お前と華子が千葉に行った時に何をしでかしたか、だ。それですぐに家へ飛んで帰ってグロピウスに訊いた。あいつは猫だからあまり記憶力はねぇが、それでもその日の一部始終はしっかり覚えていてな、ちょいと脅すとすぐに白状したぜ・・・まぁ目星は付いていたが、今まで証拠が無かった。華子は体中の皮を剥かれても口を割らねぇオンナだからな。そいで俺はお前んちへ行ってお前をとっ捕まえようとしたんだが家は珍しくもぬけの空だ。仕方なく出直したが昨日も居なかった・・・お前、昨夜は女房以外のオンナのところに居ただろっ?」

翔吾は眉を寄せ、カップから目を上げて八百樹を見た。

「ふん、図星だな」八百樹は人差し指でこめかみをポリポリ掻いた。「安心しろ。俺はお前の女房に告げ口するなんていう番茶の出がらしみたいな真似はしねぇ。俺が言いたいのはだな、俺はお前のことならたいていわかるってことだ。お前が今日『てんてん』で何を食ったか当ててやろうか?」

八百樹はこめかみを掻く手を止めて、ニヤリと笑った。「・・・チキンライスだな」

翔吾は力無く頷く。「・・・だけど、『てんてん』のチキンライスは特別なんだ」

「それは俺も知ってる。『てんてん』のチキンライスは確かに絶品だ。米粒が一粒ずつ独立宣言してて、半分焦げたケチャップと香ばしい味のハーモニーを奏でている。作ろうたってなかなかああは上手く出来ん。料理職人のワザだ」八百樹は人差し指を翔吾に向けて振る。「しかも、缶詰のグリーンピースが嫌いなお前のためにグリーンピース抜きのを作ってくれる。代わりに小さく刻んだ貝割れダイコンを乗っけてな。だが知ってるか?『てんてん』の本領は天丼なんだ。それなのにお前がいつもチキンライスを注文するんで、店のオヤジは本当は面白くねぇんだぞ。だから今度行ったらエビ天丼を注文してみろ。オヤジはやっとわかってもらえたと喜んで特大のエビ天を乗っけてくれるぜ。そういう気のいい奴なんだ、覚えとけっ」

「わかったよ」翔吾は両手を広げた。「次に行ったら今度は天丼にするよ・・・で、君は僕に何を言いたいんだ?」

「だから、言っただろ?」八百樹は肩をすくめた。「俺はお前のことならたいていわかる、と。ところが、だ。こいつの問題ばかりはどうもわからねぇんだ」そう言って、もう一度ポスターを指差し、険しい目付きで訊いた。「お前、華子をすっぽんぽんにして股座まで覗いて絵を描いたくせに、その後なんで、やらなかったんだ?」

「へ?」と、翔吾の声が裏返る。

「へ?じゃねぇよ、お前がやってねぇのはわかってるんだ。グロピウスが証人、じゃねぇ、証猫だ」八百樹は真顔で言葉を続ける。「いずれにしてもだ、もし、お前がこれを華子じゃねぇと言い繕ったりぐっちゃらぐっちゃら言い訳しやがったら俺は即座にぶっ殺そうと決めていたんだが・・・素直に認めやがったから殺すタイミングを逃した。今度チャンスがあったらな、未野、その時はしっかりやれよ。少なくとも3発はな。たっぷり、真心を込めて、サービスしろ」

思いも寄らない相手の言葉に、翔吾は思わず後ろを振り返った。が、勿論、誰かがそこで正解の札を持って立っているわけでは無い。目の前の不可解には自力で立ち向かうしか無いようだ。

「・・・なぁ、八百樹、なんでそういう話になるんだ?君は自分が何を言ってるのかわかってないんじゃないのか?」

「わかってねぇのはお前の方だな」

八百樹は腕を組んで椅子にふんぞり返る。「お前のせいで、華子のプライドはズタズタなんだぜ。お前はあいつをすっぽんぽんにして絵を描いた後、ちゃんと1発やって、それから俺に殺されるべきだったんだ。それが正しいストーリーってもんだ。お前はゲージュツカだから知らねぇかもしれんが、世の中には常識ってもんがあるんだ。あんなイイオンナを目の前にして手付かずで帰すなんざ思い上がりも甚だしいぜ」

「うーん、つまり・・・」翔吾は頭を抱える。「君は・・・僕を殺したいのか?」

「バカ言えっ!」八百樹は再び身を乗り出す。「俺がお前を殺したいわけねぇだろっ。俺は世間の賛同を得るために私立探偵をやってるわけじゃねぇが、出来ることなら善良な一般市民の愚鈍な思い込みをわざわざ覆すような真似はしたくねぇんだ。私立探偵が女房の浮気相手をぶっ殺すなんてのは歯医者が虫歯で総入れ歯になるよりチンケな展開だと思わねぇか?お前は俺にそんなチンケな役を振りたいのか?」

「じゃあ、いったい、どうしたいんだ?」

「それがわからねぇから俺も困ってるんじゃねぇか」八百樹は神に祈るような身振りで両手を上げ、大木が枯れて倒れるようにそれを下げた。「この際だから言うが、俺にも立場ってもんがある。芸術のためだかなんだか知らねぇが、お前みたいな奴に女房を裸にされて黙って見過ごすわけにはいかねぇんだ。だがストーリーに反してお前がやらずに帰して、しかも言い訳ひとつしねぇから今さらぶっ殺すわけにもいかない。どうすりゃいいのかこっちが聞きたいぐらいだ」

翔吾はしばらく相手の顔をじっと見て、それから腕時計を見た。いつの間にか2時になろうとしている。

「八百樹、君の気持ちは良くわかった・・・わかった、と思う」

彼はテーブルのカップを取り冷たくなったコーヒーをゴクゴクと飲み干し、それからポケットに手を突っ込んで百円玉を一つ取り出した。「じゃあ、僕から提案するよ。今からこの百円玉を投げる。表が出たら、この一件は今ここで綺麗さっぱり忘れる。もし裏が出たら、1回だけ、僕を思い切り殴れ・・・それで君が良ければ、だが」

八百樹は口髭をモゴモゴさせて5秒ほど思案し、ゆっくり頷いた。「天の采配って奴か・・・いいだろう、やれ」

が、翔吾が百円玉を投げようとすると、「ちょっと待てっ」と手を上げ、「1発じゃ少ねぇな、3発殴らせろ」と注文を付けた。

翔吾は肩をすくめて頷いた。「なんだか3発にこだわりがあるんだな・・・わかった、裏が出たら3発殴っていい」それから硬貨を指ではじき飛ばし、落ちてくるそれを手の甲に受けて押さえた。八百樹の目の前で押さえた手を開ける。光り輝く百円玉は表だった。

「ふん、運のいい奴だ」

翔吾は百円玉をポケットにしまい、代わりに五百円玉をテーブルに置いた。そして八百樹が広げたポスターを畳んで自分のバッグに突っ込み、席を立つ。

「僕は今からポスターの回収を再開する。とにかく一刻も早く、こいつを片付けたいんだ。そういうわけで、今日はこれで失礼するよ」

彼が店を出ると、後ろを八百樹がついて来た。イタリア製のいかにも高そうなスーツを着込んだ強面の男について来られるのは落ち着かない。翔吾は仕方なく立ち止まって振り返る。「まだ僕に何か用?それとも、もしかしてコーヒー代が足りなかった?」

「ふん、俺がそんなケチな男だと思うか?」八百樹は翔吾の上着のポケットに手を入れる。

「俺にもリストをよこせ。回収を手伝ってやる」



《走る男》

思いがけない八百樹の申し出に、翔吾は礼を言って配布リストの一部をちぎって渡し、「ポスターを配られた方は悪くないんだから、店に貼ってあっても殴っちゃダメだよ」と念を押して危うく自分が殴られそうになった。

八百樹は、「お前、なんか俺を誤解してねぇか?」とブツブツ言いながら山手線の中に消えて行った。山手線周辺の比較的配布場所が纏まっている辺りを担当したからだ。いつも派手なスポーツカーを乗り回している男が混んだ電車に納まるのは奇異な感じがする。もっとも、彼の周囲だけ空くかもしれないが。

翔吾は○○線沿線や○○線周辺の、ギャラリーが点在する地域を歩くことにした。いや、時間が惜しいので実際はほとんど走っていた。織美は東の方を担当している。4時を少し廻った頃、彼は移動しながら織美の携帯に電話してみた。

「もしもし、未野だけど、そっちはどう?」

「はーい、順調ですぅっ」織美は嬉しそうな声を上げた。「昔の子分が8人集まりましたからぁ、みんなで手分けしてそろそろ回収終わりそうですぅ」

「子分?・・・織美さんって、親分さんだったの?」翔吾は反射的に彼女の裸身を思い出し、(刺青なんかあったかなぁ?)と考えた。

「フフフ、『族』やってた時の子分ですぅ」

「フフフー『俗』?」翔吾の頭の中で、タンカを切る織美は急遽石鹸の泡まみれになる。

「違いますよぉ、『雷門』っていう暴走族ですよぉ。高校の時、ちょっとバイクに嵌って、こう見えても限定解除持ってるんですよぉ」

「へぇー、凄いね」限定解除というのが何の限定を解除しているのか彼は知らなかったが、とにかく凄いことなのだろうと感心した。

「未野さんの方は、どうなんですかぁ?」と問う織美に、翔吾は手短に八百樹の話をする。彼が現れた経緯は全てはしょって。

「いいお友達に出逢って良かったですねぇ。じゃ、遅くとも8時頃には戻って来れそうですかぁ?」

「まだ何とも言えないけど、努力するよ」彼は腕時計を見ながら答えた。「今日は家に帰らないと・・・じゃあ、また後で」電話を切ろうとした時、織美が何か言い掛けたような気がしてもう一度耳を当てたが、すでに応答は無かった。

翔吾は再び走り出し、駅から駅へと何度も電車に乗ったり降りたりし、時には路線バスを乗り継いでギャラリーや店を廻った。八百樹に蹴られた向こう脛がズキズキしたが、それも次第に感じなくなった。疲労すると足が棒になると言うが、棒を通り越してタイヤになったように思えた。2本の足が機械的に前へと繰り出されるので、廻る車輪のように感じられるのだ。加えてポスターを回収する度に担ぐバッグは重くなる。

彼は息を切らせながら走り、走りながらさまざまなことを考えた。亜輝子のこと、華子のこと、岡鬼のこと、24年振りに突然現れた母のことと突然存在を知った妹のこと、そして父のこと。それから、何も知らなかった自分のことと、最後に織美のことを。自分を巡る人々の想いと思惑とそれぞれの人生がそれぞれの立場を主張しながら頭の中で渦巻いた。彼は彼等の主張に耳を傾け、理解し、深く頷いて頭の引き出しにしまう。主張してくれるのは有難い。言われなければ自分にはわからないから。いつも頭の中は絵画に関することで一杯で、他のことの入る余地が無いのだ。母に言われたとおり、自分は「芸術という羽を生やしたバケモノ」なのかもしれない。

翔吾は立ち止まって肩で息をした。また胸が痛む。ふいに激しく咳き込み、口を押さえた掌を見ると、そこには青い液体が付着していた。

(・・・血?)

しかし血液なら赤い筈だ。彼は外灯の下へ行って再度確認した。やはり、青い。それも鮮やかな、絞りたてのウルトラマリンブルーだ。 翔吾はしばらくそれをじっと見つめ、それから頷いてこの事実を頭の引き出しにしまう。

(・・・まぁいいだろう、俺の血は青いってことだ。バケモノに似つかわしいじゃないか)

彼はハンカチでそれを拭い、再び走り出した。



《タイムリミット》

午後7時48分、武蔵小金井で半分閉まったシャッターを叩いて隙間から『画廊・羅狗庵』に滑り込んだ翔吾は、遂に最後の1枚を回収した。彼の到着を待っていてくれた店主に頭を下げ、重いバッグを担ぎ重い足を引きずりながら駅まで戻る。もう体力の限界だ。しかしポスターを『D.I.Y.ギャラリー』へ届け、岡鬼に引き取って貰わねばならない。

渋谷駅に着いたのは9時3分だった。土曜の夜のハチ公口はまだまだ人波が現役だ。彼は大きな重いバッグが通行人に触れる度に右へ左へとよろけながら道玄坂を上った。普段なら15分程度の道のりを47分掛かって『D.I.Y.ギャラリー』に辿り着く。

「ただいま」と扉を開けると、応接のソファに織美と参道美紀が待っていた。

「きゃぁーっ!」と悲鳴を上げて飛んで来た織美は、翔吾の肩からバッグをもぎ取り、迷い猫を拾うみたいに彼をソファに座らせた。「大丈夫ですかぁ!?ヒドイ顔色っ!ゾンビみたいっ!」彼女は掌で彼の頬をゴシゴシ擦って血行を促し、「す・すぐに暖かいお茶を淹れますねっ!夕ご飯は食べたんですかぁ!?」と訊いた。

「・・・いや、食って無いけど・・・食いたくない」

彼の返事に、織美はプルプルと顔を振る。「ダメですよぉ、食いたくないなんてっ!『コンキチ堂』の肉まんがあるから暖めますね。美味しいんですよぉ、『コンキチ堂』の肉まんっ」そう言って厨房へ向かった。

翔吾はソファに埋もれるように体を預けて目を閉じた。このまま朝まで眠ってしまいたい、と思った。明日の朝、一番の電車で帰れば・・・だが、亜輝子がどう思うだろう?『闇光園』の地下蔵に篭ってからかれこれ1週間近く外泊を続け、その間自分は一度も妻に触れていない。

ふと視線を感じて目を開けると、向かいに座った美紀がこちらをじっと見つめていた。美紀は彼が目を開けるのを待っていたように身を乗り出し、膝の上で組み合わせた指を波間に漂うクラゲの触手みたいに動かしながら言った。

「昨日は・・・たいへん失礼しました。とても申し訳なく思っています」

翔吾は、相手の言葉の意味を量りかねて首を振り、「・・・あなた、忙しいんじゃないの?」と訊いた。

「そんなことはどうでもいいんです。私はお兄さんに謝りたくて、戻られるのをお待ちしていたのですから」美紀は真剣な眼差しを向ける。奇妙なデジャヴ感を覚えたその顔は、間抜けなことに自分そっくりなのだった。

「謝るって、何を?」自分にそっくりなのに若い女性だというのはつくづく面妖な話だ、と思いながら彼は訊く。

「色々なことです・・・母の言ったことや、明雄氏と母のことや、明雄氏と私のこと・・・それをいきなりお兄さんにぶちまけて驚かせてしまったこと」美紀は自分の手を見る。それがクラゲではなく間違いなく自分の指であることを確かめるみたいに。「私はただお兄さんにお逢い出来るのが嬉しくて、あまり深く考えずに母に従いここへ来て・・・あんなことになって、恥ずかしいです。どうか、許してください」彼女はそう言って頭を下げる。

「許すなんて・・・僕はなんとも思ってないよ」翔吾が肩をすくめた時、織美がお茶と『コンキチ堂』の肉まんを運んで来た。織美は彼の隣に腰掛け、右手に湯飲みを持たせ、左手に半分に割った肉まんを無理矢理持たせる。立ち昇る蒸気と香りが食欲をそそる。彼は湯飲みと肉まんを交互に眺め、大人しくそれを口に運んだ。確かに織美の薦める通り、『コンキチ堂』の肉まんは干し椎茸の出汁が効きタケノコの歯ごたえもあって旨かった。

彼が食べ終わるのを待って、美紀は言葉を続ける。「じゃあお兄さんは、母のことも明雄氏のことも恨んではいないのですか?」

翔吾は織美が2杯目を注いでくれた湯飲みを両手で持って溜息をついた。「もう、24年も前のことだ」

「でも・・・」美紀は納得しかねる表情だ。「昨日、母が言った言葉は昨日発っせられたものです。24年前じゃありません」

翔吾は熱いお茶を飲み干して湯飲みをテーブルに置き、袖をまくって腕時計を見た。10時10分だ。あと20分以内にここを出ないとまた終電に乗り遅れる。

「美紀さん・・・悪いけど、今日はあまり時間が無いんだ。僕は山根さんに話があるから、申し訳ないけど席を外してくれないか?」



彼の言葉に、美紀は目を丸くして泣き出しそうな顔になった。それを見て慌てて付け加える。「僕は昨日の母のこともあなたのことも本当になんとも思ってないんだ。母の言うとおり、僕に大事なのは絵を描くことだけで、我慢ならないのはそれを邪魔されることだけなんだ。自分については、それ以外のことはたいして気にならない。バケモノと言われたって、ああそうかもなと思うだけだ。だからあなたは気にしなくていいよ」

美紀はコックリと頷いた。が、もう一度食い下がった。「わかりました。ありがとうございます。でも、私、お兄さんともう少しお話ししたいんです。山根さんとのお話しが終わるまでここでお待ちしてはいけませんか?」

「それは困る」翔吾は出来る限り優しい声で、しかしきっぱりと告げて立ち上がり、美紀の手を取って席を立たせ、扉の前まで連れて行った。「話しはまた今度いつか・・・機会があったらね」

「そんな・・・私、お兄さんのアトリエをお訪ねしても構いませんか?もっと・・・もっとお話ししたいんです」

「来るのはあなたの自由だ」彼はそう言って彼女を外へ出し、扉を閉めて鍵を掛けた。

振り向くと、ソファに座った織美が上目遣いに彼を見た。「・・・美紀さんに聞かれちゃ困る話って、なんですかぁ?」

翔吾は腕時計を見た。あと15分しかない。彼は織美の傍らに取って返し、何も言わずに頬に手を添えてキスをし、そのままソファに押し倒した。驚いた織美は「ダメですっ、未野さんっ、電車に遅れますぅっ」と口では抵抗したが、素早くスカートを捲くり上げ下着を下げて彼を受け入れた。

10分後、体を起こした織美は乱れた衣服を直しながら呟く。

「・・・未野さんってば、変ですよぉ。お母さんにあんなこと言われて、タガが外れちゃったんじゃないですかぁ?美紀さんにはなんとも思ってないなんて言って・・・本当は凄く悲しかったくせに」

翔吾は急いでコットンパンツを引き上げ前を閉じる。「うん・・・確かに、僕は嘘つきだ。それに」腕時計を見ながら言う。「・・・約束を破ってすまない・・・言いたかったことは別のことだったんだけど、体が信号無視してしまった」

「この子、違反切符切りますよぉ・・・罰金もぉ」織美は笑いながら、彼の股間を指で弾く。「信号無視と路上駐車とスピード違反」

「時間が無いからスピード違反はやむを得ないよ。とにかくもう行かなくちゃ」彼は上着に袖を通す。「あ、そうだ、忘れてた、八百樹は?七尾八百樹は来た?」

「来ましたよぉ。担当したポスターをちゃんと持って。8時ちょっと前頃だったかなぁ?美紀さんと鉢合わせして驚いて、それから彼女にサイン貰って・・・」

「サイン?」

「それで、帰ろうとしたところに岡鬼さんが来て、七尾さんが『こいつかっ』って1発ぶん殴って・・・あっ」慌てて織美は口を押さえる。「未野さんには言うなって言われてたんだ・・・聞かなかったことにしといてくださぁい」

翔吾は苦笑した。「まぁ、仕方がないさ。八百樹にしてみれば・・・」

「デッサンのモデル、七尾さんの奥さんなんですってね」

「話せば長いことながら・・・」彼は時計を見る。タイムリミットだ。「じゃ、今日はこれで」

だが、扉の前でもう一度振り返って織美にキスをした。

「ごめん、どうも僕は未練たらしい男らしい。あとひとつだけ君に言いたいことがあるんだけど・・・」

「なんですかぁ?早く行かないと、本当に電車に遅れますよぉ」織美は手を伸ばし、彼の頬を撫でる。翔吾はその手を掴み、強く握った。

「・・・もし、君とマリアの子供が絵の勉強をしたがったら、ちゃんと美術学校へ行かせてやってくれ。お願いだ」

彼はそう告げて、ギャラリーを後にした。


道玄坂を全速力で走って下り、渋谷駅から山手線に乗る。新宿駅のホームにはすでに最終電車の『かいじ123号』が待っていた。彼は階段を走って昇り、中央本線のホームへ走って降りる。『かいじ』の車内に飛び込むと、背後でドアが閉まった。

翔吾は車輌を移動し、窓際の空席を見つけて腰掛けた。座席を少し倒して伸びをする。

(・・・やれやれ、長い2日間だったな)

だがそれももうすぐ終わる。ホッとした途端に耐え難い疲労に襲われ、彼は全身がどろどろに溶けて別のイキモノに乗っ取られるような、深くて底の無い眠りに落ちて行った。




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